MU「愛の続き/その他短編」@下北沢OFF・OFFシアター

最近、いろいろな所で話題になっていたので、ちょっと気になっていたハセガワアユムさんの演劇ユニット「MU」。チラシとキャストが妙に気になったので観に行ってきました。今回の公演は1公演あたり2作品×2プログラム=全部で4作品という公演プログラムだったのですが、私は1日で両方のプログラムを観に行ってきました。作品ごとにちょっと練りこみ不足を感じた部分もありましたけど、それは4作品という上演形式もあってのことで、演目を絞っていけばもっと個々の作品の精度は上げられたのかなとは思います。ただ、この上演形式が決して悪かった訳ではなく、一つ一つのそれぞれのアイディアは面白かったですし、短編集とは思えない見ごたえもあり、このボリューム感で3500円(先行予約でセットで観劇の場合)はかなりのお値打ち感がありました。
基本的にはとてもスマートで時には遊び心も感じさせる作風なのですが、私達が日常当たり前だと思ってスルーさせてしまっている感情に焦点を当て、自分の固定観念に凝り固まってしまっている部分を突き刺してくれる、そんな感性の鋭さを感じさせてくれました。こういういい意味で尖った作品を観ていると、自分の感性や価値観に刺激を受けるのと同時に、自分が年を取ってしまったことを不本意ながらも認めざるを得ない気分になってしまいます。

作品ごとの感想については時間があったら追加する予定です。

ニブロール「ロミオORジュリエット」@世田谷パブリックシアター

「観ていないので良く分からない」という自分自身の不勉強のせいもあってか、コンテンポラリーダンスには苦手意識を感じる私なのですが、そんな私でも何故か不思議と観てしまうがニブロールの公演。映像や音楽や衣装といったダンス以外の部分での見所の多さが、私みたいなビギナーにとっては取っ付きやすいからかもしれません。ただ、今回は座席が最前列だったということもあって一番圧倒されたのは一番のメインであるダンスそのもの。日常私達が何気なくしている動作を起点にどんなことが表現できるのか?今回の公演ではその広がりと楽しみを少し知る事ができたように感じます。
ポストパフォーマンストークでの話ですと、今回のテーマは「境界線」は「ある」ということ。そのことは公演の後で知ったのですが、2人1組で踊っているパートがやたらと多かったのはそういう訳だったのかと納得しました。そのせいか、私がダンスから感じ取ったイメージは、「個々を一つものに溶け合わせるものや、集団や2人を個に分かちあうものの存在」といった境界線といった概念よりももっと漠然としたものです。時には個が溶け合うように融合していくゆくように感じたのは、境界線は人為的に作られるものではなく自然に作られるものだという作品の主張からでしょうし、2人の組み合わせがやたらと多かったのは、境界線が存在するもっともプリミティブな状態が1対1の関係だからなのかもしれません。
その世界を作り出す上で今回とても良かったなと感じたのが彼等の着ている衣装。単純にシックな色彩が自分好みだったというのもあるのですが、男性に女性の服を着せたりその逆だったり、性別や外見の境界線を一回リセットして自分達の世界を作り上げるのにとても効果的だったと思います。
逆に映像については、ダンスや衣装ほどは強烈な印象を感じませんでした。観ている場所のせいも大きいのでしょうが、舞台から近すぎるせいで映像が逆に観にくくなってしまったり、ダンスと微妙にズレがでてしまっているように見えてしまいました。過去の公演や矢内原美邦さんのソロの公演でも感じていたのですが、観る場所によって視界が舞台から切れてしまったり見えにくい場面がでてしまうケースが多いような気がします。単純に普通の演劇とは比較できないのかもしれませんが、パフォーマンスの完成度を高めることほど、客席から自分達がどう見えているのかということに気を配ってくれないかなと思ってしまいます。
それと今回のテーマが境界線ということでしたら、個と個の間のそれだけではなく、例えば3つ巴の関係(一番簡単なのはジャンケンとかなのでしょうが…)やそれ以上の組み合わせの中にもそれぞれの境界線があるハズです。あくまでも素人考えなのですが、境界線についてもうちょっと可能性や範囲を広げて捉えていけば、この公演以上で示したその先の世界も表現できたのではないのでしょうか?
でもそうは言っても、ビジュアル的にもパフォーマンス的にもとても刺激的ですし、第一観ていてとても美しい舞台でした。少なくても、日常生活で自分がいかに己の身体について鈍感に過ごしているのか、そのことについていろいろと強く感じるところがあったのは確かです。

いとうせいこう×奥泉光「文芸漫談シーズン2」@北沢タウンホール

参加するのもこの日で6回目なのですが、今回に限っては行こうかやめようかかなり悩みました。それは日程的な問題ではなく、今回のテキストはデュラスの「愛人」だったため。前回の最後で「苦手」と言っていた奥泉さんではないのですが、あらすじを読んだ段階でこんな機会でもない限り、私にとってはおそらく一生読む機会が訪れることはないに違いない作品で、読むまでは奥泉さん以上に苦手意識を感じていた作品だったからです。
まあ、これもいい機会かと半分諦め混じりに参加することにしたので読んでみることにしたのですが、最初こそ取っ付きにくかったものの、読み進めていくうちに、それが「こりゃあ、かなりすごい小説だ」ということをつくづく実感。時代を超えて読み継がれていく作品の強靭さえに敬意を払いつつ、今更ながらの自分のタチの悪い食わず嫌い癖を改めて反省する今日この頃。
ということを感じた方が私以外にも多かったせいか今回の文芸漫談は、いつもよりお客さんが少ないように見受けられたのですが(2人とももっと少ないと思っていたと言っていましたが)、だいたい会場の6〜7割位の入り。普段より1〜2割位少なめだったと思います。ただ、それにも関わらずいつも以上に作品の新しい見方を発見することができ、自分でも予想以上に実になる部分が多かった今回の漫談。自分が読んでいた時に感じた靄がかったような漠然とした違和感を随分と上手く言葉にしてもらったように思います。作品に対する思い入れか、特にせいこうさんがいつも以上に作品について熱く語っていたのがとても印象的でした。

この漫談の話についてはもうちょっと書きたいことがありますので、後日もうちょっと加筆するつもりです。

デス電所「残魂エンド摂氏零度」@ザ・スズナリ

(あらすじ)
未来の世界では人々の争いが絶えなかった。
現実の世界では国家は次々と滅んでいき、それを滅ぼした国家をテロリスト達が転覆しようと企んでいる。
一方ではネットの世界はますます進化が進み、とうとうアンドロイド型のハードが開発される。
親から、その女性の姿をしたアンドロイドを与えられた一人の少年は、彼女を介してしか世界とつながることが出来なくなってしまい、その結果、自分の家から一歩も外に出られなくなってしまう。
そんな時、政府の人間が彼の家にやってくる。今済んでいる家が政府とテロリストとの戦場になるので、即刻ここから避難しろという。
(感想)
前回、前々回の公演に行き続き今回で3度目の観劇になるデス電所の公演。過去2回ではどちらもパワフルな作品を2時間以上見せていただきましたが、今回の公演はどちらかといえば過去と比較すればおとなしめで、時間も1時間40分程度。公演後のトークで言われて納得したのですが、今回はいつも多めに取り入れているダンスも歌もシモネタ混じりの笑いも極力控えめにしたということと、キャストが劇団員のみだったということが大きかったようです。確かに入る余地があまり感じられない作品だったので、無理矢理詰め込まなかったのは正解だったと思います。いつもより、ぶっ飛んではじけたような感じこそしませんでしたけど、その分すっきりとして分かりやすい作品に仕上がったと思います。
この作品は、作・演出の竹内佑さんが「一時期ネットゲームにはまってしまった自分が抜け出すためのテキストのようなもののために書いた」と言っている通り、現実とネットとのあり方が大きなテーマになっている作品です。題材そのものについては、先日観たスロウライダーでもそれに近いテーマが取り上げられていたように、正直それ程目新しさは感じませんでした。ただ、観客との生身のコミュニケーションで成立している演劇に携わる方たちから見たら、その極にあるものとして、ネットでのコミュニケーションについては、一般人の私達以上に敏感なのかもしれません。
題材自体はありきたりなのかもしれませんが、実体験に基いているせいか、個人的にはかなり身近な問題として感じました。中間にハードを介してしか人とつながれず、ハードがなくなった途端どう人とコミュニケーションをしていいのかパニックになってしまったり、ネットで調べれば分かってしまうので自分で考えようとしなくなったりする部分などは、特に後者は自分でも思い当たるフシがあるだけに、結構ドキリとする場面も。全体的にそれをシニカルに描いているのですが、スピード感を残しながらも、あえて無機質な質感に仕上げたのが、個人的にはとてもいい感じです。特にダンスが控えめな分、和田俊輔さんの音楽がいつも以上に良かったですし、作品のイメージを膨らませるのに効果的でした。ただ、客観的に見たら、人と健全にコミュニケーションができる人ほど作品に共感してもらえない危険性を感じますが。
惜しいなと感じる部分や、もうちょっと詰めきって欲しかったなと感じる部分が若干ありましたが(特に竹内さんの出演シーン周辺)、全体的には引き締まって面白い作品だったと思います。個人的には、前々回が好みで、前回が今一つしっくりこなかったので、今回の出来で今後の公演も観るか見送るかの判断材料にしようかと考えていたのですが、今後も追いかけてみようかと思わせるだけの価値のある公演でした。特に、次回公演は青山円形劇場だそうなので、広くなるステージで暴れまわる姿を見せて欲しいものです。

KAKUTA「目で見て嘘をつけ」@シアタートラム

(あらすじ)
地方の海沿いの都市にあるそば屋を訪れる一人の男。その店の店主の友人の男は、訳あって会社を辞めたため今は無職で、友人の好意でしばらくそこにお世話になることになっていた。そのそば屋で店主の家族に紹介されたり、二人の共通の友人とその妹と会っていると、見覚えのない美女に「久しぶり」と声をかけられる。しかし彼には彼女が誰なのかどうしても分からない。それも当然で、実は彼女の正体は…。
(感想)
この劇団の作品を何度か観ていていつも感じるのは、空間作りがとても巧みなので、芝居とは別にその場にいるということがとても心地よく感じるということ。普通の劇場の舞台だと開演より早めに着いてしまうとその間どうしようかと悩む事も多いのですが、この劇団に関しては、開演前から役者さん達が登場したり、劇場での開演前のお願いにも一捻り工夫が施されていて、その心配も無用です。特に選挙カーのパロディの案内は、聞いていて思わずニャッとしてしまいました。
そんな空間で繰り広げられる作品は、さまざまなちょっと訳ありな人達の人間模様が描かれた作品。冒頭こそちょっとギクシャクとした感がありますが、キャストが一通り揃いだすに従って、話も作品も良くなっていき、その後は最後まで楽しく観させてもらいました。特にいいなと思ったのが、ちょっと訳ありな登場人物達にそれぞれの背景があり、それを役者さんが1人1人が膨らませて生き生きとした人物像を作り出している点。例えば、筒井真理子さん演じている性同一性障害の男性(?)役は、最初に「お兄さん」と呼ばれた時点でおかしくて1人吹き出しそうになるのを必死にこらえてしまいました。あえて男性的な部分を押さえて、普通の女性よりも女性らしさを前面に押し出していたのですが、そういう役だと言われてしまうと「あー、そうですね」と納得できてしまうから演劇というのは不思議です。生まれつきの女性でないからこその意識した女性らしさから生まれたものだと言われると納得です。
筒井さんと2人で話の中心線にいる成清正紀さんもなかなか印象的。穏やかな外見と、それに反したグチャグチャとしたものを抱えている内面とのせめぎあいを上手く演じていたように感じました。
基本的に人一倍集中力に欠ける人間なので、いつもだったら2時間以上の舞台は苦手なのですが、今回に限っては2時間5分でもまだまだ観たりないという印象を受けました。このことはこの作品のいい部分と問題点との両方の部分を象徴しているのではないのでしょうか。いい部分としては、前述した通り一人一人の人物の背景がとてもよく描かれているので、作品の世界がとても広くて観ていて純粋に楽しかったということ。登場人物はそれぞれの事情から、大小実にさまざまな「嘘」をつくのですが、人間というのは嘘だけでは生きていけない、けど嘘なしでも生きていけないなということを強く感じました。観終わった後、何人かの「嘘」は自分の中にも確かに棲みついているのだなと思いました。
一方で、一人一人がしっかりと描かれているだけに、それぞれをもうちょっと掘り下げて描いて欲しかったという物足りなさを感じてしまったのも事実。例えば、内海賢二さん演じる父親視線で息子が娘に変わっていってしまうとどうなるか、とか若狭勝也さんと大枝佳織さん演じるそば屋の店主夫妻のエピソードなんかはもっとこの先を見てみたいと感じてしまいました。
これは、私の身勝手な感想なのですが、それ以外にもそれぞれのエピソードひとつひとつは面白かったので、この作品については、いっそ2時間と言わずに二部構成にするくらいの気持ちでとことんまでやりきってしまった方が良かったのかなと思います。これでも充分に面白いのですが、万一そこまでやったらものすごい作品になっていたかも、という気がします。

青年団「火宅か修羅か」@こまばアゴラ劇場

(あらすじ)
部員が事故で亡くなってから十三回忌の時期に偶然同窓会で集った、高校のボート部のOB達、どこか訳ありの雰囲気の男女の客、経営者姉妹、そんな人々が出入りする地方にある旅館のロビー。その旅館で執筆を続ける作家とそれを待つ編集者。
その旅館を訪れる作家の3人の娘達。そこで彼女達は、父に彼女達とあまり年の変わらない女性と再婚する事を始めて告げられる。淡々とした父とは対照的に、突然の事に娘達の心は微妙に揺れ動くのだった。
(感想)
青年団の舞台を観ていると、いつも空気や間といった言葉では表現できない部分の絶妙さを感じるのですが、今回の舞台ではそれが格別に強かったように感じます。タイミングの悪い部分まで含めて、その抜群の間の置き方が生み出す人と人との距離感の作り方が素晴らしいと思います。ボート部員同士の会話の中にたまたま同席してしまった編集者の気まずさ、旅館経営者と旅館に住みついてしまった作家との親密さ加減、姉妹の会話をたまたま聞いていた話しかけるボート部員など。旅館のロビーだからこそ起こる人間関係の様々な形が自然な流れで出てくるあたりは、それのパーツ、パーツを観ているだけでも楽しかったですし、平田オリザさんの演出の巧みさとレベルの高い要求に答えられる役者さんの力量とを感じます。
ただ、それが緻密だからこそ観終わった後しばらくずっと離れなかったのは、作家である父と娘達との距離感への違和感です。家族にしては淡々としすぎていますし、かと言って家族以外の何者でもない、けど何かが欠落しているという、どこか掴み所のなさ。あの掴みどころのなさは何なのだろうかとしばらく考え込んでしまいました。
この作品は基本的には淡々としてその場で起こることや人々の感情に大きな変化が生じることはありません。ただ、自分なりに振り返ってみると、実は作品が淡々と流れていくのは、その「場」の状況がそういう状況だからではなく、この作品に登場する人物達に「怒り」の感情というものがそっくり欠落しているからなのではないか?自分が感じた違和感というのは実はそれが理由なのではないか?そう考えると自分自身腑に落ちる部分があるように感じました。母親が亡くなってから旅館にずっと住み続けて家に帰ってこない父親に対する感情というのは普通だったら「怒り」や「恨み」だろうと思います。転覆して事故死したボートに同乗していて一人生き残った男も、死んだ部員の彼女だった女性に、無関心でいられるよりも怒りの感情の一つでもぶつけてもらった方が救いがあるではないのではないでしょうか。
「怒り」の欠落の原因が諦念からなのか、ある部分に対するお互いの無関心からなのかは私には分かりませんでした。ただ、そう考えると最後の父親が厨房を借りて娘達に自分の手料理を振舞おうとするラストシーンは、その場所が家ではなく旅館だというグロテスクさともども、表面上の穏やかさの裏側にあるとてつもない冷え冷えとしたものを感じました。感情をあらわにしない分だけ、そうやった時よりも、こんな作品を作れるのかという意味も含めて、ホントに怖い作品だと思います。