沢木耕太郎「紙のライオン−路上の視野」

この作品は文庫では全3巻になっており、実は3巻目を読み終わった後、感想文を書くために1巻目にあたるこの作品をもう一度読み返しました。何かこの作品の感想をきちんと書かないと、沢木さんの作品から始まって、先日、日清食品トークイベントに行ったまでの話というのが、自分のなかで何か完結しないように感じてしまったというのが一番の理由でしょうか。
この作品に収録されているのはエッセイの中でも、「方法」、「時代」という形でカテゴライズされた作品になります。作者がノンフィクション作品を「なぜ書くのか」「なにを書くのか」「どうやって書くのか」といった方法論に試行錯誤している過程や、そうした中で「テロルの決算」や「深夜特急」「一瞬の夏」などの作品を書くことによっていかに自分のスタイルを確立していったのか、その道筋といったものが分ります。このエッセイが書かれた時期というのは70年代後半から80年代前半にかけてなのですけど、沢木さんの作家としてのスタイルというのはこういったプロセスを通じて、この時期にほぼ確立されていて、今に至るまで作家としての軸になるものは今になってもブレることがないんだと思います。
一人の作家が悪戦苦闘しながら自分の作家としての作法を身につけていく純粋な読み物として読んでも面白い作品ですけど、それだけではなく、事実ににじり寄って捕らえていくことの難しさと、奥の深さというものを、私達に教えてくれる作品という側面も持っています。
この本が書かれてから今に至るまでの、作者のノンフィクションに対する軸線のブレのなさには心から感嘆しますけど、半面一点だけ気になってしまったところがあります。それは、この作品のあとがきでも触れられている、作者が吉村昭さんの作品について語っている次の言葉です。

しかし、ノンフィクションの書き手としてのぼくが最も強烈な興味を覚えたのは、吉村昭がこの作品で抱え込まねばならなかった困難についてであった。その困難とは、ひとりの作家がひとつの「方法」を確立しその極点まで歩んで行ったあとで、必ず襲われるにちがいない自らの「方法」への「徒労感」を、どのように突破できるかという難問に関するものである。
(「完成と破壊より」)

と言うのも、ノンフィクション作家としての手法を確立した今、吉村さんについて指摘したこの「徒労感」をいうのを実は沢木さん自身が感じているのではないか、私にはそういった不安を感じてしまうのです。
スタイルが確立されるということは作家にとってとても重要だと思いますど、一方で、それが確立された瞬間、マンネリ化や陳腐化へと転がり落ちていく危険性を常に孕んでしまいます。送り手の側に「自分にしかないもの」を提供しながらも、一方では「今までにはないもの」を作り出していかないといけない。そんなともすれば相矛盾する命題に答えていかないといけないということは、実は我々が思っている以上に大変なことなのかもしれません。沢木さんがノンフィクションだけでなく小説等のほかのジャンルにも活躍の場を広げたのも、手法への徒労感とマンネリ化への恐怖と無縁ではなかったのではないか、と思いました。
ISBN:4167209055:DETAIL