飯嶋和一「汝ふたたび故郷に帰れず」

私達は何故ボクシングという憎んでもいない相手を殴りあう競技にこんなにも魅了されてしまうのか、そしてそんなボクシングにボクサー達を駆り立てていくものは何なのか?この作品は小説にも関わらずそんな謎に鋭く迫っている作品です。稀有な才能を持ちながら、弱小ジム出身で日本人には少ないミドル級という階級であるためにくすぶってしまったボクサー。そんな彼が転落し、そこから復活する過程を描いた物語です。この作品のなかの文章自体は決して流麗でも闊達でもありませんので、人によっては表現が野暮ったいという印象を受けるかと思います。確かに、そんなに口当たりのいい文章ではないのですけど、文章をよくかみ砕いて読んでいくと、ひとことひとことがずしりと重たい。まるで、ボクシングのボディブローのようにあとからじわじわときいてきます。この皮膚に痛みが張り付くような文章が、ボクサーの言葉では言いつくせない体に刻み込まれたリングへと向かっていく衝動といったものを描く時に実に効果的です。特に、主人公がアルコール中毒から立ち直り、ふたたびボクシングへと向かっていくきっかけとなるシーンがあるのですが、そのシーンは必見です。(まだ作品を読んでない方かは是非自分で探してみてください)私は、思わず鳥肌が立ちそうになりました。
さらに本作がただのボクシング小説にとどまらない魅力を持っているとしたならば、それはこの作品が人と風土との関わりというテーマに深く触れているということがあげられるでしょう。主人公が故郷の南の離島に戻るシーンがありますけど、そこで主人公は身近な人々の死を知らされ、それと同時に故郷にふたたび触れます。それによって、失ってしまいもう二度と取り戻せないものがあることを知り、同時にまだそこに失わずに残っているものがあることに気付き、そこから再生していきます。それによって故郷とは人の精神に何をもたらしてくれるのか、といったことが実に見事に描かれています。そのことについては作者はあとがきでも次のようにも述べています。

人は幼い頃、世界を完全なものとして見ている。大きくなるにつれ、次第にそれらの一切が力を失い、歪んで色あせたものにしか感じられなくなってしまう。
“故郷”とは、地理上に位置づけられたある地点をさすのではなく、心の中にあって、焼きつけられた様々な時間の集合のことである。どこに行ったとしても再び再生されることはないし、探せば探すほど感光したフィルムのように像は消えうせてしまうはずのものだ
「孤島までー文藝賞受賞作へのあとがきー」より

時間と場所との相関性について、これほど本質をついた言葉というのを、少なくても私はほとんど見たことがありません。
作者の飯嶋和一さんというと歴史小説のイメージが強いかとは思いますけど、この小説も素晴らしいので、ボクシングに興味がある人にもそうでない人にも是非読んでもらいたい作品です。
ISBN:4094033122:DETAIL