池澤夏樹「異国の客」

「自分にたりないのは知識よりもむしろ常識だ」、と思う今日この頃ですが、じゃあ、常識って何だろうって考えてみると、意外にあやふやな言葉だなあ、ということに気が付かされます。住んでいる場所、属している共同体、信じている宗教や信念…そういったものが変わってくれば常識も当然変わって来ざるを得ない。新しい場所に移り住むというのは、そうした常識に揺らぎが生じることであります。そして、それは耐えられない軋轢を生み出すことがある一方、何者にも変えられない新しい出来事の発見を生み出す機会にもなりうるのでしょう。
本書は作者が移り住んだフランスでの日々の暮らしや、そこで見たものや感じた事、考えた事、そんなさまざまなことが綴られた、思索に充ちたエッセイ集です。内容についてはじつに多様で、例えばアスパラガスの食べ方の話とEU問題が同じ遡上で語られており、一歩間違えると散漫で乱暴な印象がしてしまうのですが、本作の場合はまるでバラバラの木片がピタリとはまった寄木細工のように文章が良く練られているので、そういった印象はありません。その結果、バラエティに富んだ、知的好奇心の刺激される作品になっています。
このエッセイのいいなあ、と思うところはフランスのことを取り上げながらも、安直な日本との比較を避けている事です。安易な比較文化論的なエッセーを読んでいると、「私は君達の知らない事を知っている。知らない君達はだからだめなんだ」といった書き手の読み手に対する傲慢さというのを感じてしまい、「言ってる事は一理あるんだろうけど、金と時間を掛けてまでそんなこと言われたくないよ」と反発を覚えてしまう私にとって、この事は大きいです。だからと言って、作者が全く日本を意識してないかというと決してそうではなく、日本から離れたからこそ、その場所との差異が明確になり、相対化できるということを強く意識している、そういった見地から日本についても考えようとしている、そう思えて仕方ありません。そう考えると、本書は前述したような作者のフランスでの生活について書かれたエッセイという側面だけでなく、決してそれだけでは終らない示唆に富んだ作品でもあるといえるのではないでしょうか。
ISBN:4087747808:DETAIL