伊坂幸太郎「魔王」

考えろ、考えるんだ、マクガイバー

戦前の日本やドイツがいい例だと思いますが、ベクトルがある一方向に向かった時に、そこに引きずられてゆく大衆心理というのは恐ろしいものがあります。そのなかで「自分だけは違うんだ」と思いながらも、気が付いたら思考停止状態になり、大部分の人間は大勢に流されてしまうのではないでしょうか。「当時と違って情報が大量にかつ多様に入ってきて判断材料の増えた今の時代にそんなことはありえない」と思いながらも、その情報の多さ故にその情報量に振り回されて、何が正しくて何が間違っているのかの判断ができず、自分の目と耳と足で確かめる機会もないまま時間だけが過ぎ去ってゆく現状。そんな情報の波に踊らされてしまうことにうんざりし、私達は気が付いたら心の奥底では自分の変わりに何もかも考えてくれる人間=独裁者を求めているのかもしれません。そんな現代を舞台に、ムソリーニをモデルにした大衆を魅了してやまない政治家・犬養と、彼を実像以上に勢いづかせる大衆心理と時代の流れの恐ろしさに立ち向かう兄弟の物語。それが本作になります。

でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば…そうすりゃあ世界がかわる

そんな強大で見えない敵と戦う兄弟達の武器。兄は思ったことを相手にしゃべらせる「腹話術」に弟は絶対にジャンケンに負けない力。ミステリーのジャンルで語られることの多い今までの伊坂さんの作品とは一味違うなあと思いながらも、一ひねり利いた設定とそこから作り出される魅力的なキャラクター達というのは、作者のどの作品にも共通するモノなので、その点では安心して読んでいられます。無条件で信頼しあう兄弟像というのは「重力パズル」の中にも見られる作者の共通したキーワードで、そこからは作者のあるべき兄弟像とか、家族像といったものが見えてきます。
読み終って真っ先に感じたことは、「この作品は果たしてこれで終わりなのだろうか」というしょうがなくも素朴な疑問です。作品中に憲法改正を持ち出したり、テーマがデリケートだったりするので、読者にある程度の結論を委ねる本作のような結末も、一つの終らせ方だろうなあ、と思います。しかし一方では、兄弟達の力で世の中をどこまで変えられるのか、犬養達との対決の果てに何が待っているのか、と言った部分をとことんまで描ききって欲しいなあ、という気持ちもあります。更に、作品の中で、ムソリーニが民衆に処刑される時、一緒に処刑された愛人のスカートを直した人のエピソードがでてきて、そういった人になりたいと主人公達が言っている場面があるのですが、彼等にとってそれが何であるのか?その答えもはっきり出たとはいえないので、その答えも見てみたいです。あくまでも個人的な意見なのですが、このままでも決して悪い作品ではないのですけど、少しフラストレーションの溜まる終り方だったので、できれば続きを書いて欲しいなあ、というのが正直な気持ちです。
isbn:4062131463:detail