北杜夫「夜と霧の隅で」

初期に書かれた短中編集で、全5編収録。そのなかでも、もっともインパクトがあるのは、芥川賞を受賞した、表題作になるでしょう。
第二次大戦末期のナチスドイツ。不治とみなされた精神病者を、安死術と称してユダヤ人同様処刑される決定が出された。精神病院の医師たちは、当然、そんな指令に抵抗するが、命令を拒否すればは患者と一緒に自分自身が処刑場に送られてしまう。そんななか、不治の宣告から患者を救おうと、精神科医たちは、あらゆる治療を試み、ついに、絶望的な脳手術まで行ってしまう。歴史上の舞台をベースに極限状態に置かれた人間の心理を、淡々と論理的な語り口ながらも、えぐるように突き詰めた描写で書かれている。どちらにしても、死しか待っていない患者達に対し、心の奥底では絶望的だと自覚しながらも、様々な治療をおこなう医者達を見ていると、自分が生きながらえていることを正当化するための、究極の自己満足のようにも思える。しかし一方では、奇跡を信じて少しでも前向きに生きようとする人間の尊さのようにも思えてくる。結局、そうした様々な感情の全てを含めて人間の本質と言えるのだろうか。なんとも難しい問題だ。ただ、ひとつだけ言えるのは、この小説は私達を決して、完全な傍観者の立場には置いてくれない、ということだろう。舞台がドイツであるにも関わらず、登場人物の中に日本人の精神病者がいるのは、この作品を少しでも私達の身近に置くための意図があるように思える。
isbn:4101131015:detail