Ort-d.d「肖像オフェーリア」@自由学園明日館講堂

以前から見てみたかったフランク・ロイド・ライト設計の建物で、舞台作品が上演されるということ。個人的には、作品の内容よりもその事自体にワクワクしてしまい観に行くことに。
作品そのものも、そんな会場をフルに使ったどこか幻想的な作品でとても見応えがありました。
(あらすじ)
ハムレットの物語を近代日本の文学者たちはどう捉えていたのか?太宰治「新ハムレット」を中心とした様々なテキストを用いて描かれるストーリー。そしてそれに交錯するかのように描かれる、太宰治「女生徒」、如月小春DOLLS」を組み合わせたミッションスクールの女生徒たちの物語。この2つの物語をつなぐ存在、それがハムレットのヒロイン“オフェーリア”。
膨大なテキストを基に描かれた、重厚で軽快で、どこか幻想的な物語。
(感想)
個人的には、行く前は、この会場で作品が上演されたこと自体に意味があるということと同時に、この特殊な空間の素晴らし空間に負けずに、劇場ではないという難しさをどう克服するのか、そのことに一番興味がありました。始まる前は、スタッフの客要れも含めた会場のわさわさとした雰囲気が会場本来の持つ空気とかみ合わずぎくしゃくとした違和感のようなものを感じたのですけど、照明が落ちて舞台が始まると、夜の闇や光の按配や、会場全体をフルに使った荘厳な雰囲気に満ち溢れた作品で、観ている途中でゾクゾクとしました。
作品は、重厚なシェークスピア演劇と、軽快な女生徒たちの日常を描いた作品です。太宰治の「新ハムレット」のストーリーは全く分かりませんけど(というよりそもそもハムレットそのものが細かい場面になるとあやしい)、ハムレットをオフェーリアを焦点に当てて描くとこうやって見えるのかとか、シェークスピアの作品のさまざまな形のアレンジの仕方があるのかと、いろいろな意味で勉強になりました。明治の文豪たちにとってオフェーリアという女性は1つの理想の女性像なのですけど、理想の女性像というのは言い換えると、=自分達にとって都合のいい女性、という解釈ができ、それによってハムレットに登場する女性達を都合よく書き換えている側面というのが確かにあるんだなと思いました。そして、文豪達が活躍した当時の日本における理想の女性=男性にとって都合のいい女性を作り出す場所であるミッションスクールで、女生徒達が彼等の作り出したオフェーリアの物語に一喜一憂するという図式がとても面白い作品でした。テキストや服装からおおよその時代設定だけ作っておいて、ミッションスクールの生徒達の配役に名前をつけず、あえてはっきりとした場所や時間の設定をもうけなかったことによって、教会のような会場の中で現実とも幻ともつかない空間を作り出すことに成功しているように感じました。肝心のハムレットの作品の方もポローニャス役の村上哲也さん、クローディアス役の三村聡さんとの演技合戦を始めとして見応えがありました。ハムレットやオフェーリアも含めて時には黒子のように、時には彼等の建前の中の本音を暴露し、更には、彼等の意思を無視して行動する「影」の存在が面白く、作品の世界に奥行きを与えています。
私のようにそれほど近代の日本文学に詳しくない人間にとっては、使用されるテキストの量が膨大で、それが公演の案内も含めて全く説明もなく引用されている点には不親切で骨っぽすぎると感じたり、テキストの重さに耐え切れずにストーリーが消化しきれなかったりする部分があったりしましたけど、ただこれだけ歴史の重みのある場所に負けない美しい空間を体験できただけでも、会場に足を運んだ価値があったと思っています。