土屋賢二さんの講演会のメモから

先日行った講演会の内容を自分なりにまとめてみました。あくまでも私のメモに基づいてのものですので、私の主観が入ってしまったり、内容が上手く拾えなかった部分がありますので、その旨はご容赦ください。

(テーマ)「いかに生きるべきか?」

(本題に入る前に、「講演会に来るという判断力のない人がこれだけいれば本が売れるはずなんですが…」と言う話から入り、「自分のやっているジャズバンドの演奏が上手くいかなかった」とか、「TVに出て精神的なダメージを受けた」とか、「風邪をひいた」とか、更には「チューインガムを噛んでいたら下唇も一緒に噛んでしまい上手くしゃべれない」等、今日の講演が上手くいかなかった場合の言い訳を延々として、その後テーマの話に入りました。本筋とは全く関係ないのですが、土屋さんの場合こっちの話の方が面白いケースが多いのですけど……。私の文章では面白さが伝わらず、ファンの皆様には大変申し訳ありません。)

 僕(土屋さん)もそうですけど、自身のない人間は、そうでない人よりも「いかに生きるべきか」といったことを問題にしてきました。なぜ「いかに生きるべきか」が問題になるかというと、それは選択の余地があるからです。たとえば、動物の場合は「いかに生きるべきか」ということを問題にはしません。僕達は選択に困った時に、どっちを選んだらいいのか、ということが結構あります。それとは別に選択の基準が多い時にどっちを選ぶのか、どんなものを手に入れたいのか?大抵の場合、一個を選ぶともう一つを犠牲にしないといけません。例えば、ハンサムなんだけど盗癖があるとか、非の打ちところがないかわりに一日に一度カエルになってしまう、といったことが挙げられます。だから、僕達は選択に迷いが生じるのです。
 では、どうすればいいのか、と考えてみますと、僕達の行動には大体一貫性がありません。同じ人でも、その時その時で選ぶ基準というものが変わってしまいます。だから、結局、問題としては「いかに生きるべきか」といったものが生じてくるのです。そこで、何を選択するか考えた時、それには大きくわけて二通りの意味があり、僕達はその二つを混同しやすいです。一つは、自分の目指しているものの目標を手に入れるためにどうしたいいか、ということが挙げられます。どうやったら、その問題に対して答えられるかというと、専門化が事実を明らかにして、それによって答える事ができます。一つの目標が決まっていて、何がある目標を達成するかにもっとも効率的か、そういった時にはこの意味が当てはまります。
 ふたつめは、いろいろある選択肢の中からどれを選んでいいか、という問題を立てることがあります。プラトンは「ソクラテスの弁明」なかで、「人間はいかにいきるべきか」ということを問題にしていますが、ソクラテスが求めたものは、結局この問題です。プラトンはこの問題が分からない人間は、生きる理由が分からない悲惨な人間だと考えました。僕は、それが果たして納得できる考えなのかどうかを考えてみようかと思います。たとえば、どんな答えを出せばいいのかを考えてみますと、誰でも納得ができる理由といったものを求めているのではないでしょうか。といった、種類の答えを求めているのではないかと思います。その答え方としては、まずは、自分の求めるように、満足のままに、快楽を求め生きていけばいい、という答え方があります。しかし、それではほとんどの人は納得できないと思います。なぜなら、たとえば麻薬等のように感覚が充足されるということによってこの問題が解決されるのではなくて、何に幸福を見出すべきなのか、という問題が「いかに生きるべきか」という問題に他ならないからです。
 じゃあ、ちゃんとした答えが考えられる候補としてはどんなことが考えられるのでしょうか?まず、客観的な事実があって、それを基にして答えられれば、説得力はあります。じゃあどんな客観的事実が考えられるでしょうか?一つは、専門家の意見というのが考えられます。医者とか、物理学者のように「いかに生きるべきか」の専門家がいれば、その人に聞けばいいのです。では、この場合誰に聞けばいいのでしょうか?たとえば、講演会で著名な方が「いかに生きるべきか」について話をしたとします。しかし、僕にはそこまで説得力があるかどうか疑問です。では、人格者に聞いてみるのはどうでしょうか?確かに、説得力があるように思えますけど、実際に人格者のような振る舞いができるか、というとまずできません。たとえば、マザーテレサがなぜ尊敬されているかというと、僕らにはできないことをしているから尊敬されているのです。
 じゃあ、哲学者ではどうでしょうか?哲学者によって様々な意見がありますけど、もしも哲学者の意見が一致していたら、と考えてみます。多分、それでもそれには従わない、信用しない、と思います。もっと、信用できる人はいるか、たとえば神様があらわれて、「人間はこのように生きなさい」と言ったとします。そしたら、その通りにするでしょうか?多くの人はその通りにするかもしれませんが、神様が何をいうのかがわからない以上、無条件に従う事はないと思います。たとえば、自分のすきな食べ物がラーメンと塩さばとケーキとキムチだとして、神様がそれを混ぜて一日十回飲め、と言われたらまず従わないでしょう。なぜ実行しないかと言われたら、僕達はそれに意味を見出すことができないからです。
 普通だったら神様にこうしなさいと言われたら受け入れるのが当然のはずなのに、実行できないのはなぜでしょう?神様がいうことが正しくないと判断できる人なら、いかに正しく生きるか、という問いを立てる必要がそもそもありません。なぜなら、そういった人は他人にそんな問いを立てるまでもなく、自分でもうすでに正しく生きているという答えができています。けど現実では、そういった人間はほとんどいません。
 「いかに生きるべきか」という答えの候補として二つ目に考えられるのは、ある賞罰によって決まられる場合が考えられます。たしかに賞罰は非常に大きな影響をもっていますけど、しかしそれが「いかに生きるべきか」という答えにはなりません。たとえば、人間は賞罰を逸脱して行動する時があります。叱られるから、罰則をうけるから、というのが分かりながら行動する事もあります。リスクや危険を承知で行動したり、健康を損ねたり、体重が増えるとわかっていて、そういった行動をとることもあります。
 もうひとつの考え方としては、「われわれは生きている目的がはっきりしないと、生きる理由がない」という考え方、ドストエフスキーが「罪と罰」のなかで、「神はある目的のために人間はつくられている、この目的がわかればいかに生きていくかがわかる」といった内容のことを述べていますけど、こういった考え方です。しかし、人間がつくられた目的を知ったからと言ってその通りに行動するとは限りません。たとえば、地球人は宇宙人に滅亡させられるためにつくられているといわれたからといって、地球が滅亡しやすいように協力するわけではなく、普通はそれに逆らおうとします。目的が与えられたとしても、その通りにするとは限らない、それは才能にも当てはまります。スリの才能がある人間が、じゃあスリになるか、というとそういうわけじゃありません。
 さらにもうひとつあげると、欲求といったものが考えられます。自分が何を欲しているのかわかると、確かに目的を達成できるという側面があるかとは思います。けど、僕らは欲求や本能や衝動をいっぱい持っています。むしろ、どの欲求に従うべきか考えるのです。

このように、色々と考えてきましたけど、客観的なものをいくら並べても根拠のあるものはありませんでした。結局、時間がないので2〜3分でまとめると、われわれが求めているのは「正しい選択」だけど、そもそも「正しい」というのと「選択」というのが相容れないと思うんです。たとえば、1から10まで数字があって、正しい数字を選びなさい、と言われた場合、すでに正しい数字は決まっているのですから、もし正しい数字を選んだとしても、本当の意味で選んだことにはならないのです。神様やDNAや自然の摂理にただ従うロボットのようになるのだったらそれでいいのですけど、自分で選択するのだったら、正しいとか、正しくない、という問いは万能なのです。

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