謝るだけなら、金は掛からない

昨日は職場の歓送迎会があり、帰ったのが今日になったため日記が更新できませんでした。久しぶりに盛り上がったのですが、今日は本当に疲れました。
先日の京王線の人身事故について、他の人の日記を見たら、思いのほか好意的で、優しいコメントが多くてびっくりしました。それを読んだ他人に流されやすい私は、「形だけでも謝っているから、ここは広い心で許してやろうか」と思っていたら、今日も五分程度とはいえものの見事帰りの電車が遅れてくれました。アナウンスでしきりに謝罪していましたけど、「誤るのはもういいから、きちんとした対応と、充分な情報をくれ」と言いたくなってしまいました。
思わず私は、学生時代に八百屋のアルバイトをやっていたころ、そこのおっちゃんに「いいか、いくら頭を下げたって、謝るだけならタダなんだからな。」と教えられたことを思い出しました。人によっては異論があるようですけど、私は常識人すぎる位の常識人ですからから(常識人過ぎて面白みが全くない人間だとさえ思っています)、確かに気持ちの問題は大切だとは思いますし、謝らないよりは、謝ってもらったほうがいいです。しかし、そこに企業や組織の論理が入ってくると、私達が想像もできない様々な思惑が入ってくるので、常識人の私には、残念ながら謝罪ひとつとっても額面通りうけとれないです。
こんな栓もないことを考えていたら、「たかが、電車が遅れたくらいで、いちいちこんなことばかり考えているから、自分の人生に対して必要以上に疲れを感じるのだろか」、と感じずにはいられませんでした。本来であれば、事故に逢われた方の安否を気遣い、冷静な対応を心掛けるべき所なのでしょう。しかし、頭では分かっていたり、口先だけで奇麗なことを言っても、当事者でない限り、現実にそういうふうに対応することは、なかなか難しいことです。ラ・ロシュフコーも「箴言集」で書いている通り、「われわれは皆、他人の不幸には、充分耐えられるだけの強さをもっている」のですから。そうならないためには、いろいろなモノを見て、様々な人間と接して、自分を出来る限り傍観者にしない努力が必要なのでしょうけど、まだまだ、修行が足りないようです。