大崎善生「パイロットフィッシュ」

アダルト雑誌の編集部に勤める山崎のもとに掛かってきた電話。いつも掛かってくる友人の森本からのものとは少し違うし、かといって他に思いつく人もいないと、疑問に感じながらも出てみると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、十九年ぶりに聞くかっての恋人の由紀子の声だった。そのとき山崎の記憶の底から浮かび上がったきたのは、由紀子との日々や、かって世話になったバーのマスター一家、出版社でかって上司だった沢井達とも思い出だった。
本作は、過去とそこからつながる現在とを交差させながら、人と人との出会いと別れを、透明感あふれる文章でつづった作品です。記憶のもつ素晴らしさと厄介さ、そしてそれが介在する人間の別れのせつなさと、希望といった所がこの作品のテーマでしょうか。人間はその人と出会った記憶がある限り、作中の通り、「二度と別れることはできない」ものなのでしょう。しかし、一方で、自分の切り捨てたい過去や都合の悪いできごとや、忌まわしくも出会ってしまった人たちの存在を消し去ることも出来ないです。

 人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである。
 人間の体のどこかに、ありとあらゆる記憶を沈めておく巨大な湖のような場所があって、その底には失われたはずの無数の過去が沈殿している。何かを思い立ち何かを始めようとするとき、目が覚めてまだ何も考えられないでいる朝、とうの昔に忘れ去っていたはずの記憶が、湖底から不意にゆらゆらと浮かび上がってくることがある。
(冒頭より)

この、冒頭の印象的な書き出しが、ストーリーが進むにつれて思わぬ大きな意味を持ってきます。正直、主人公の山崎のように、由紀子や、マスターや、沢井や、現在の恋人の七海等の、魅力的な人たちとの出会いがあったから、その人たちの別れに対して、肯定的に受け止められるのだろうと思います。実際の人生では、こんな良い出会いというのが、これだけの頻度で起こることってなかなかないでしょう。ですから、純粋ともいえる作品の世界に物凄い魅力を感じながらも、主人公に心から共感することはできませんでした。ただ、人間の歴史について突き詰めていくと考えてみると、人間の記録と記憶の集積だとも言えるので、この作品のテーマというのが、一面の真理であるとはいえます。魅力的な登場人物を駆使して、語り口も美しい本作は、いろいろな欠点を抱えているとは思いますが、それを差し引いても、非凡な作品だと思います。
ISBN:4043740018:DETAIL